あざみ野・たまプラーザピアノ教室 講師紹介

【誕生〜幼少期】

東京都新宿区生まれ。

3歳の時に父方の両親(祖父母)達と同居する事になり神奈川県横須賀市へ引っ越し。

父の弟、妹も一緒だったのと私の弟も産まれた為、3人家族から一気に8人の大家族となりとても賑やかに!

オマケに動物好きだったのか、犬、うさぎ、オウム(とっても良く喋ってた)、カメなどなど沢山の動物も飼っていた。

両親も父の弟も妹もとても音楽を聴くのが趣味だったので常にテレビよりも音楽がステレオやラジオから流れていた記憶がある。

(ジャンルはロックから演歌まで多岐に渡っていた。)

 

4歳になり2年保育でカトリック系の幼稚園に入園。

身体が小さく小食だった私はお弁当を食べるのがとても遅くなかなか食べきれずお残りをさせられ良く泣いていた。

現在の教育では考えられないが食べ切らないと帰りの園バスに乗せてもらえない為、まだ赤ちゃんだった弟をおんぶしては母が運転免許も無いのにバスに乗り、迎えに来てくれたのを覚えている…母よ、ありがとう(涙)

 

その幼稚園は音楽活動がとても盛んで鼓笛隊では小太鼓やベルリラ(前に担いで立てて演奏する鉄筋)などを担当。

更にヤマハオルガン教室(当時の名称)も入っていたので私が入りたいと言ったのか?はどうか不明だが気づいたら幼児科に入会。

担当の先生が若くて綺麗なお姉さん先生で週に一回の音楽教室の日を待ち侘びていた。

母と一緒に付き添いに巻き込まれていた弟も3年後には同じ幼稚園、音楽教室へ。

 

【小学校】

相変わらずおチビで小食だったが小学校に入学してから『おてんばユリちゃん』に大変身!

近所に神社や広場があり神社のスピーカーから流れる5時の音楽が鳴るまではお友達とずっと外遊び。

鬼ごっこやローラースルーゴーゴー(懐かしい✨)で転んですり傷を作っていつもどこかに絆創膏を貼って(笑)

 

音楽教室は大好きで両親からは1度も『練習しなさい!』と言われた事なく毎日オルガンを弾いていた。

ヤマハの幼児科卒業の時に先生から勧められ小学校2年生からジュニア専門コースへ。

幼稚園会場ではなく横須賀市内の中心部にある楽器店へ通う事になる。

グループレッスンの他に個人のピアノかエレクトーンのレッスンを選択するのだが決めきれず『どちらもやりたい!』と希望して週に3回も家から1時間以上かかる楽器店まで母が付き添ってくれて(弟も一緒)楽しく通った。 

帰りが遅くなる曜日は3人で夕飯は外食だった。

それも楽しみのひとつだった。

 

2年生の終わる頃、ピアノの個人レッスンの曲をオルガンで練習していたら…け、鍵盤が足りない!

エレクトーンはご近似のお姉さん宅から譲っていただいたものがあったので問題が無かったので尚更焦る💦

そこからはもう毎日毎日『鍵盤が足りないー💦』と家族に訴えかける日々。

あまりにも私がしつこかったのか聞き飽きて根負けしたのか、祖母が見るにみかねて『そんなに好きなのなら…』と3年生になった時アップライトピアノを買ってくれた。

ピアノが家に届いた日は今でも鮮明に覚えていて何の曲を1番最初に弾いたかも覚えている。

本当に嬉しくて嬉しくて今まで弾いてきたありとあらゆる曲を『もう、夜遅い時間でご近所に迷惑かけちゃうからまた明日にしたら?』と母に声をかけられるまで夢中になって弾いていた。

家に念願のピアノが来たおかげで私はどんどんピアノが好きになっていった。

グループレッスンでは作曲の勉強もしたので3〜5年生の時には発表会以外にJOC(自作曲で出る)コンサートやコンクールにも出場した。

 

学校での高学年のクラブ活動で器楽クラブというのがあり5・6年生の時はパーカッションを担当。小太鼓はじめ、時にはカウベルやトライアングルの小物楽器、大型楽器のドラム、ビブラフォンやマリンバなど色々な楽器を体験し、とても楽しかった。

 

音楽漬けのように思われるかもしれないが『おてんばユリちゃん』は健在で4年生からは地域のミニバスケットボールを始める。

ピアノの先生には突き指などやケガを心配されるがそんなのお構いなし(笑)

毎週末にはミニバスケットボールの練習や試合で遠征があってとても充実した小学校生活を送った。

 

この頃から大きくなったらピアノの先生になりたい。と作文や卒業文集には書いていた。

でもなんとなく…の夢。

 

【中学生】

当時、地元では5本の指に入るほど『荒れている中学校』で有名だった為、怖ーい先輩が沢山いそうでちょっとビビりながらの市立中学校入学。

部活は迷いなくバスケ部へ。(またまたピアノの先生は心配していたがお構いなし)

とても厳しい部活で入部から半年間は先輩方の練習を常につま先立ちで見学とボール拾い。

そして何よりキツかったのは部活が始まる前には必ず校庭を10周ランニング😱

でもそのお陰で大嫌いだったマラソン大会でも常に3位以内に入れた。(でも今でも長距離は嫌い)

根性は相当鍛えられたと思う。

 

合唱も盛んな中学校で合唱コンクールでは熾烈な闘いのオーディションを受けて3年間ピアノ伴奏をした。

卒業式では讃美歌『ハレルヤ』の伴奏をしたのが思い出。

その頃からピアノはグループレッスンは無く個人レッスンのみになり先生から出される宿題があまり好きでなく(特にバッハのインヴェンション)殆ど練習せずで合唱の伴奏曲ばかり弾くようになり進みが遅くなっていった。

 

【高校生】

神奈川県立横須賀大津高校に入学。

部活はバスケットボールか迷ったが中学校の頃に無かった吹奏楽部へ。

パーカッションを担当し、小学校時代を思い出しながら胸を弾ませて入部したがOGの指導者と相性が悪くいつもイビられ嫌味を言われるのに耐えられず1年生の終わりに退部してしまった。

部活もなくなりヒマが出来た私は原付バイク欲しさに(16歳になりすぐに免許取得済み)バイトを始める。

某ファーストフードのチキン屋さんだったがそのバイト先でその後の私の進路の決め手になる出逢いが!!

2つ年上の音大に通うお姉様たちお二方と出逢い、卒業後の進路をぼんやりとしか考えていなかった私が『音大に行きたい!』と決めるキッカケとなった。

それまで音楽教室のピアノの先生しか知らず音大を受けるには…どうしたら良いのか?などとお話もした事がなかった為、そのお姉様たちに必死に色々教えてもらい、高2の夏に音大の夏期講習へ。

とても有難い事にお姉様たちのピアノ科の先生(教授だった)までご紹介いただきレッスンを受けた。

音楽の理論的な勉強はそれまで全くしてなかったので目が点!(◎_◎;)

おまけにピアノのレッスンでは緊張しながら演奏したものの、最後まで弾き通す事なく止められ『あなた、今までピアノの何を学んできたの?指も弱いし基礎がなってないわっ、幼稚園生並み』と…チーン⤵︎

難しいお年頃の高校生に向かって…そこまで言うとは…

今まで『大好き』って続けてきたピアノ人生を瞬殺され撃沈。

でも、憧れの音大のキャンパスライフを夢見た私は諦められず半年間悩み冬季講習へ。

そこでまたまたピアノレッスンで瞬殺⤵︎

そんな事を繰り返して苦しみもがいていた時に朗報!

なんと、そこの大学の音楽教室があると講習で知り合った友達から聞く。

両親に拝み倒してヤマハも辞めて高3から通わせてもらった。

毎週土曜日に高校が終わってから電車を3本も乗り継ぎ必死で通い本格的に音楽の勉強をしてピアノレッスンも受けた。(先生は紹介された先生ではなく違う先生だった)

基礎から叩き直された。本当に厳しかった。

おまけに帰宅時間は22時を過ぎる生活。

でも音大生になりたい気持ちが強くて耐えられたのだと思う。

長年ヤマハっ子だった事で聴音や初見、和声には全く困らなかったのが唯一の救いだったが今、思うとその時が1番『勉強』というものに真剣に向き合っていたと思う。

 

【大学生】

念願叶い、洗足学園音楽大学、器楽科ピアノ専攻に合格✨

今では無くなってしまったが当時あった第2希望の同じ大学の短期大学音楽科、ピアノコースにも合格✨

 

私はそこで人生最大の選択ミスを犯す事に…

あれだけ入りたかった音大なのに高校生時代からお付き合いしていた同級生の彼が2年間の専門学校へ進学したので一緒の年に卒業して早く社会人になり結婚を2人で夢見ていた為、両親や周囲の反対をも跳ね除け短大入学を選ぶ。

そして洗足学園短期大学 音楽科のピアノ専攻への入学を決める。

 

短大生活はいつも試験に追われていたがそれでも本当に楽しく、個人レッスンの先生にも恵まれて(卒業後から現在でも指導していただいている)あっという間の2年間だったが在学中から音楽事務所へも入りブライダルのエレクトーン演奏が多かったがその他都内や神奈川県を中心に色々なホテルでのレストランやラウンジなどでピアノ演奏などをしてバイト代を貯めて中古ではあったが自分の車も買った。(忙しかったのにしっかりと18歳で普通免許も取得)

何せ、交通の便の悪い所に住んでいた為、最寄りの駅までも暗い道が多く怖い思いをずっとしていたので絶対に必要不可欠だった。

 

【卒業後から結婚まで】

卒業後は短大生時代に既にピアノとエレクトーンのヤマハの演奏グレード5級を取得していたのもあり試験を受けヤマハ音楽教室のシステム講師になる。

ご縁あって小さな頃から通っていた楽器店の所属となり事務の方やヤマハ担当者とも面識ありそれに私の事を指導してくださっていた先生も残っていらした為、和気あいあいとアットホームな感じで居心地良くグループレッスンを中心に個人レッスンも担当させて頂き、長男を出産するまでの6年間過ごさせてもらった。

 

お休みの日は趣味のドライブとテニス。地元の友達とのカラオケと夏は海でBBQ、冬は日帰りスキー三昧。

 

【結婚〜出産】

25歳で結婚。

これまでの長い私の歴史を読んでくださった方は前出の高校時代からお付き合いしていた同級生と結婚した。と思われるかもしれませんが、実は違います(汗)

 

その彼とは残念ながら23歳の時にお別れしてしまった。

(それで大学入学の時の選択を後悔する事に繋がるのです…時すでに遅し)

 

その後、24歳の時に知り合った2歳年上の今の主人とお付き合い1年足らずでスピード結婚。

26歳で長男を出産しヤマハの講師を退職。

ブライダルのお仕事の方は細々と実家の母に子守りをお願いしながら続けていた。

 

【人生の転機】

結婚後の新居も私の実家のそばのマンションを借り長男も産まれて無事に公園デビューも果たしママ友も沢山出来て穏やかな生活を送っていましたが私27歳、長男が1歳半の秋に主人の転勤が決まり名古屋へ引っ越す事に!

物心ついた頃からずうーっと横須賀市内から離れた事の無かった私にとってはそれはそれはとてもショックな事で…不安しかなかった。

地元の友達とも離れるのも両親の近くから離れるのも悲しくて泣き暮らす。

そうは言っても決まってから引っ越しまで1ヶ月なく、バタバタと準備をして全く知らない土地、名古屋へ。

 

【名古屋での生活〜次男出産】

右も左も分からず知り合いも誰もいないので社宅へ引っ越した。

社宅の方々とは同じくらいの歳の子供を持つお宅も多くすぐに仲良くなれて色々と教えてもらいとても助かった。

とはいえ、社宅の一歩外を出ると関東とは違う事が沢山。

まず最初にビックリだったのは道に迷い、分からず人に聞くと『西へ行って〜、その次の交差点を東に〜』と説明されて…はぁ⁇どっちが東だか西だかさっぱり分からないのにそんな事言われても〜と(笑)

方向音痴の私は良くベビーカーの長男と社宅に帰れなくなってしまう事もあった。

最初の頃は夕方、長男と社宅のそばにある川沿いの遊歩道をお散歩しながら神奈川に帰りたくてよく涙を流していた。

 

そんなネガティブな名古屋生活だったが長男が幼稚園に入ってからは沢山の地元のママ友達も出来て楽しくなり、ヤマハ音楽教室にも通い始め、地元のJリーグチームのサッカースクールにも長男が入り練習や試合、イベントなどがてんこ盛りで一気に行動範囲も広がり超アクティブなママに!(本来はこちらの性格なんだと思う)

 

生活にも慣れて名古屋生活も楽しくなってきた。長男が年長さんの年に次男誕生。

6学年違いの歳の離れた兄弟になった為、赤ちゃんを育てるのがとても新鮮だった。

ただ長男の予定に乳児の頃から振り回されていた次男は大変だったと思う。

 

【平和〜ドン底へ】

家族4人になり仕事が大忙しで主人は殆ど寝に帰ってくるような生活で育児はワンオペだったがそれなりに毎日が楽しかった。…のだが、次男3歳検診を迎える頃に(医療関係の仕事をしている)主人から『〇〇←(次男の名前)の成長でちょっと気になる事があるから検診の時に相談してみて』と突然言われる。

あまり手のかからない穏やかな子だったので私には訳わからず意味不明。

でも主人に〇〇の様子を言われて確かに…と私も気づいた事もあり保健師さんに相談すると児童相談所で1度、発達検査を受けてください…と紹介されて検査へ。

まだその頃は3歳だった事もありはっきりとは病名はつかないけれど『広汎性発達障がい』でしょう…と。(いわゆる自閉症スペクトラム)

えっ⁈

言葉も普通に出てるし最低限の身の回りの事も出来るようになってるのになんで?どうして?

ハンマーで頭を何度も叩かれたような気持ちになりこれから先の成長を考えては泣く→障がいについて調べる→また泣くの無限ループ∞

 

社宅には次男と同時期に生まれた子供も多く知られるのが怖かったため一般の賃貸マンションに引っ越す。

しばらくの間は中の良い友人以外とは会わず、引きこもり。

 

昔からの友達などに相談しても『神様が選んで〇〇くんはユリちゃんのもとに産まれてきてくれたんだから頑張って!』などの励ましの言葉をかけてくれたり一緒に泣いてくれる時もあったり。

今では本当に感謝の気持ちしかないがその当時の私は精神的・身体的にもおかしくなっていて神様が選んでくれた…

なんて言われたって私には育てられる訳がない!

などと思い詰め、気づいたら長男と次男を乗せて車で名古屋港の岸壁にいた事も数回。

そんな事を繰り返しているうちに私の様子の変化に耐えられなかったのか長男が身体を壊して余儀なく入院。

幸い、大事には至らず1週間ほどで退院出来たが、そこで私はこの子達の母親は私しかいないんだからしっかりしなきゃ!と目が覚める。

それからは療育にも通うようになり色々な経験をし知識も少しずつ増えていった。

 

そんな次男も幼稚園に入り生活ペースが馴染んできた年少さんの秋に8年ぶりの転勤が決まる。

『次は何処に?』と恐る恐る主人に聞くと…

なっなんと神奈川県の川崎!!

やったぁ〜両親もいる神奈川に戻れる〜っヽ(´▽`)/

随分と後に聞いたのだがどうやらどんどん痩せて憔悴し切る私を見兼ねて主人が会社に次男の事を話し相談して関東への転勤希望を出してくれたらしい。

でもあれだけ、名古屋への転勤で不安しかなかった私なのに名古屋での友人も沢山出来て8年も住んだ名古屋から離れるのも淋しい気持ちもあって複雑な気分だった。名古屋メシ…も大好きになったのに…。

現在でも親交があり時々、お互いの家に泊まったり子育てがひと段落した今はママ達だけで温泉旅行に行ったりしている。

本当に当時精神的におかしかった私を助けてくれて感謝しかない(涙)

今でも長男と次男の事も我が子のように見守ってくれていてありがたい、かけがえのない存在。

 

【2度目の引っ越しから現在】

横須賀に戻りたかったが主人の勤務先の事と次男の療育、長男の進学などの事を考え、現在の横浜市青葉区に決めた。

後、もうひとつ決め手になったのが今でも指導していただいている大学の恩師。

名古屋に居る時も不定期ではあったが実家へ帰省するたびにレッスンに伺っていたので関東に戻れる事を報告した時にとても喜んでくださり色々とアドバイスもくださり、時には名古屋にいる私に代わって会社から提示された物件を見に行ってくださったりしたので治安などにも不安なく恩師のレッスンにも通いやすく、母校にも近いので即決。

ありがたい事に一軒家で大家さんご夫妻もとても理解ある方だった為、実家に置き去りにして行ったグランドピアノを新しく買い替えて憧れのウォールナット(茶色の木目)を購入。

 

名古屋へは祖母が買ってくれたアップライトを連れて行っていたのでピアノが2台エレクトーンが1台置ける環境となった。

次男の幼稚園も歩いてすぐ近くの同じ町内の所に決まる。

 

引っ越しも落ち着いた頃に、主人の同僚の娘さん2人にピアノを教えてほしい…とお話がありピアノを再び教え始める事になる。

本当に環境に恵まれ口コミだけのご紹介で1年も経たないうちに生徒数28名の大所帯の教室になった。

その数年後には40名近くに生徒さんが増えた為、マイホームを近所に建てる事を決意。

2009年1月に新居完成。

 

とても良いことばかりに聞こえるが、そんな事はなく、横浜へ引っ越して来てやっと両親とも頻繁に会えて色々出かけられるようになったのも束の間、母が脳梗塞で倒れ入院。

処置が早かったのとリハビリを頑張ったおかげで少しの後遺症が残る程度まで回復。

安堵している矢先に父が体調を崩す。

病院で色々検査を重ねたところ『未分化性甲状腺がん』による全身転移で突然医師からは余命宣告2週間…。(父は悟っていたのか自分の病名も聞きたくないと言い誰も父には告げなかった。)

私は小さい頃からどちらかと言うと父親との方が仲良かったのでショックだった。

次男の障がいの事も良く勉強し理解してくれて仕事の休みの週末には家まで来て横浜での生活に慣れない長男と次男を連れては『探検だ』と言い色々な所へ出掛けてくれていた父が…余命2週間なんて…とても受け入れられなかった。

でも父は闘病頑張り2週間を軽く乗り越えいっときは治るんじゃないか?

と思えるくらい元気になったりしたが病気発覚からの2ヶ月後、64歳の若さで逝去してしまった。

今も健在だったら…と思うと胸が苦しくなる。

 

現在、長男26歳…社会人。

小さい頃はピアノを習っていたが、小6の時に私の母校で行われたコンサートとのだめカンタービレの影響を受けチェロに転身。高校もオーケストラがある所を選び(進学した大学には残念ながらなかったので出身高校の大学のオケ部に所属)、現在の会社を受ける基準になったのもオーケストラ部がある所。仕事は音楽とは関係ないですが休日はオーケストラの練習に大忙し。

 

次男21歳…

療育も受けながら小学校は普通級に通い、中学は個別支援級、高校は養護学校の高等部へ。

定期的に行って来たIQ検査などの結果は学年が上がるにつれて芳しくなく、現在では知的障がいを伴う発達障がいと診断されているが、いつも笑顔でニコニコ、穏やかで私のお手伝いも率先してやってくれる我が家の1番の家事の助っ人。

長男のチェロの影響でこちらも同時期にピアノを辞め、同じ教室でヴァイオリンを1年生から始める。

その為、弦楽器の扱いを何も分からない私がやらなければならず練習の仕方も分からないので私も不定期ではあるがヴァイオリンを一緒に習った。(なぜ兄と同じチェロではなくヴァイオリンだったのかは謎)

現在も細々ではあるがヴァイオリンを続けている。

長男は勿論の事、次男の障がいの特性をも受け止めてくださり根気強く指導してくださり感謝しかない。

 

色々と悩む事がなくなった訳ではないが緩やかだけど成長して、何よりも健康でいてくれるのが1番だと思えるようになった。

3年前の教室の発表会ではようやく、親子3人でのピアノトリオが実現。

それぞれ楽器は違うが音楽を楽しんでいる。

 

【略歴・その他】

神奈川県立横須賀大津高校卒業

洗足学園短期大学音楽科ピアノ専攻卒業

ヤマハ音楽教室講師を6年勤める。

 

ヤマハピアノ演奏グレード4級

エレクトーン演奏グレード4級

   ヤマハ指導グレード5級取得

 

ヤマハピアノ教室[PSTA]認定教室

     グレード13〜11級試験官

 

ピティナ指導者会員

ピアノこころのほけんしつ登録教室

ピティナピアノステップ受験者多数

ヤマハピアノ演奏グレード受験者多数

フレッシュ横浜コンクール本選出場者多数

            (優秀賞者含む)

 

その他神奈川コンクール・ブルグミュラーコンクール・バッハコンクール・などの出場者も有り

 

【おまけ】

私生活ではあくまでも私の子育て経験からですがお子様の成長や発達など、子育ての事で悩んでいらっしゃる保護者さまのご相談にも乗らせていただいております。

1人で抱え込むのが1番良くない事だと思っています。(過去の経験で身をもって感じています)

孤独を感じた時、誰かを頼りたくなった時、疲れちゃった時、身内でもなくママ友でもない話し相手が欲しくなった時などなどはお知らせくださいね。